先日、ついつい子供に対して、怒りに任せ、声を荒げてしまいました。
予定していた勉強をなかなか始めず、仕方がなく勉強を手伝おうとすると、それにすら不平たらたらで、その態度に我慢ができず。
そして延々とお説教という、なんとなく子育てにおける、よくある叱る手順を踏んでしまったのですが、自分自身に対して、感情を抑えきれない部分があったのが非常に残念でならなかったのです。
感情的に怒鳴っても、それが根本解決にはならないだろう、という考えがどうしてもあるので、その後のお説教にしてみても、結局はちゃんと伝わっていないのではないだろうかと思っていたりもします。
自分が子供の頃はどうだっただろうか?
自身が子供の頃のことを思い出すと、私も親からお説教を受けることは多々あったと記憶しています。
私の場合、悪いことして怒られるというよりは、
やらないといけないことを「面倒くさいから」とやらずに放置することで怒られることがとても多かったです。
そして今、自分の子供も全く同じようなことで怒られているので、やはり血は争えないのだとも感じます。
当時、自分が親にお説教を食らっていたときに、頭の中で思っていたことは
「わざわざ言われなくても、自分ができていないことくらいわかってる」
「やろうと思ったけどできなかったんだからしょうがない」
「自分がやっていないの、見てればわかってたはずなのに、できない結果が出揃ってから怒るのはずるい」
と、いったようなことを考えていたし、
その場で何を言われたとしても、原因を自分以外に探し出して
「だってしょうがないじゃん」
「早く終わらないかなあ」
ということで頭が一杯だったと思います。
言われてその瞬間は発奮することもあったかもしれなかったけど、根本的に考えが変わるに至ったことはついぞなかったように思えます。
そもそもお説教って
「自分はオマエくらいのときにはこのくらいのことできていた!」
とか
「このままじゃ将来苦労するぞ!」
とか
お説教って、なんとなく漠然とした根性論のようなものを自分の経験と照らし合わせて言うようなもの、というイメージがあります。
自分としては、それなりに為になるお話をしているつもりなのですが、多分それは親自身が勝手にそう思っているだけなのだと思います。
ルールからの逸脱
そもそも子供に対して怒ったりする時というのは、
子供がなんらかのルールから逸脱したときに、それを正すためにするものだと思います。
ただ、良く思うのが、往々にしてこの「ルール」というのが明文化されていないのです。
「このくらいなら出来るだろう」
だとか
「こうあってほしい」
などの願望があって、
(親の)勝手な思い込みと、子供の実際の行動に乖離があるときに親は怒りを感じることが多いと思うのです。
もちろん、単純に「悪いことをしたから」という、わかりやすいルールの逸脱もありますが、こちらはわかり易すぎるので今回のお話からは除外します。
ルールが適切ではない
親子喧嘩が多い家庭でよく見られるのは、親が想定しているルールと子供が認識しているルールに齟齬があることです。
親が考える子供に対する期待値が無駄に高すぎたり。
ルールの正誤を判断する審判役である親が、
そのときの感情や印象でルールそのものを捻じ曲げることがあるのではないでしょうか。
例えば、週末子供が何もしないのを尻目に何も注意をせず、日曜日の夜終わり間近になって突然
「この週末は全然勉強していなかったじゃないか!」
と急に怒り出したり、
子供が休日の午前中に珍しく集中して勉強をしたあと
「ちゃんと出来るじゃん!じゃあ、午後ももうちょっと頑張って勉強しなよ」
と言い出したり。
1日2時間勉強をする、というような親子の取り決めがあったとき、先程のように、午前中に頑張って今日の勉強は終わりだと感じていた子供と、
集中してこんなに勉強できたのだから午後も頑張ってもっと先に進めたらあとから有利になるから頑張るべきだと思う親、
どちらの言い分も正しい気はしますが、事前に決めたルールからは外れています。
なので子供としては
「なぜやることをやったのに更にやることが増えるのか」
「しかも、やりたくないと言うと、また怒られる」
と、なります。
ルールに則って判断しよう
親だって別に怒りたくて怒っているわけでは無いのです。
でも子供に対してきつくあたるのは、こういった親の勝手な理想や、ルールを勝手に変えることの出来る審判者という立場から、勝手に、子供がルールを逸脱していると感じてしまうような状況。
そういった親側の強すぎる権力が逆に家庭の平穏を乱していることもあると思うのです。
親も子も、両者がきちんと守れる明確なルールを明文化して、それを共有することが、事後お説教することよりも非常に効果的ではないかと思うのです。
お説教するかわりに
親にも子にも、それぞれ役割や、やるべきことがあります。
それは家庭も社会も同じです。
例えば、会社では業務のフローが決まっていて、そこには過度な期待も不安もなく、やるべき人がやるべきことを出来るようになっています。
その範囲の中で、より上手に出来る人が評価され、お給料に反映されるのです。
こういった仕組みは家庭内においてもあって良いのではないかと思うのです。
子供がなかなか勉強をしないのであれば、いつまでに何をするかという事前共有と、それが出来るための日々の「ルーチン業務」(あえて「業務」という言葉にします)を明確にする。
そして、ちゃんと出来たのであれば、正しく評価するシステムづくり。
できなかったことに対して怒りを表すよりも、ルールに沿って行動していれば正しく回る環境づくり。
これが健全な家庭の在り方につながるのではないかと思いました。
そして、自分の経験を語ってみたり、こうあってほしいという期待・希望は、怒りの場で説教として話すのではなく、
食事どきにでも、笑顔とともに家族で共有すれば良いのだと思います。
今回のことで自分が得た教訓です。