日本人のイメージは「勤勉」であるとよく言われます。
ただ、この「勤勉」という言葉は、その言葉通りであれば良いのですが、どうもその裏には都合の良いごまかしがあるのではないかとも感じています。
要するに、企業側としては、遅い時間までサービス残業などをしてくれるような都合の良い働き蟻のような社員がいてくれれば良いわけで、そこに「勤勉である」というステータスを与えれば、それを誇りに、勝手に頑張ってくれるのを期待しているのでは無いかということです。
日本人はもともと勤勉ではなかった?
そんなことを思っていたら、非常に興味深い記事に出会いました。
日本人は真面目で勤勉――。世界にはそんなイメージが定着している。しかし近代史を紐解くと、日本人元来の特質は真面目どころか、実は怠惰だった。「日本人勤勉説」はいつ、なぜ定着したのかを分析すると、長時間労働を肯定する文化の特性が見える。
「日本人元来の特質として勤勉だ」という説は、少なくとも次の2つの点で誤っています。
(1)「勤勉さ」が日本人のアイデンティと重ねられ始めたのは明治後期以降であり、まだ100年程度の歴史しかない。
(2)また、構造的な長時間労働そのものは多くの先進国が経験してきたことであり、日本人以外が「働きすぎ」を経験していないわけではない。
製造業が発達していく際には、多くの国で構造的な超・長時間労働が観察されます。問題は、多くの先進国はそうした長時間労働を様々な方法で克服してきたのにもかかわらず、日本のフルタイム雇用世界では、そうした働き方が「温存」されてしまっていることなのです。
とあるように、記事内では日本の「勤勉さ」というのは、明治以降に作られたイメージであるとしています。
また、高度経済成長による生産業の発展、ベビーブーム、終身雇用制、人口ボーナス期など、それらの要素が全て、長時間、横並びで時間をかければかけるほど売上に繋がるという時代背景から、「勤勉」=「長時間働くこと」という考え方に固定されていった感があります。
そこには「生産性」が入り込む余地はなく、同調圧力と企業文化と与えられた仕事をただただこなしていくことが美徳とされた仕事観が醸造されていったように思えます。
勤勉な割には勉強はしていない
先程の記事にもあるのですが、社会人は、長い時間仕事をすることは厭わないのですが、自己啓発や資格取得や独学など、学校を卒業したあとはほとんど勉強をしていないようなのです。
データを確認すると浮かび上がってくるのは、社会人になってからの日本人の「勉強のしなさ」です。職場外の学習についての調査を見ると、アメリカ・フランス・韓国と比べても最も「ほとんどやっていない」という割合が高く、夫で78.9%、妻で67.7%にもなります(2006年 連合総研「生活時間の国際比較-日・米・仏・韓のカップル調査」)。
平成28年の社会生活基本調査においても、働いている人の「学習・自己啓発」の時間は平均で1日わずか6分程度です。昨今、生涯学習やリカレント教育の必要性がしきりに叫ばれる背景には、社会人になったあとの日本人の圧倒的な「勉強のしなさ」があります。
明治期に怠惰で、現在も社会人になってから勉強していない日本人――。
これでは「勤勉である」とはなかなか言えないのではないでしょうか。
高等教育とは?
教育機関を卒業し、就職をすると、殆どが自発的に勉強をしなくなるというデータですが、これは、例えば大学というのが、就職のためのネームバリューであったり、働く前のモラトリアム期間となっているから、ということは無いでしょうか?
将来的にやりたいこと・打ち込みたいことがあるとして、その研究のため、その知識を深めるために大学に行き、その先に仕事があるのであれば、そこには「勉強をしない」という選択肢はそもそもありません。
せっかく大学などの高等教育機関に行くのであれば、その環境を最大限に活用するべきだと思うものだろうし、それは卒業してもなんら変わるものでは無いと思います。
独学では到達できない知識の探求を、または、その基礎を、高等教育は与えてくれます。
その学習習慣は一生続きます。
それを活かし、自身の生活と、社会に対して還元していくことこそが「勤勉」であるということではないのでしょうか。
人口減少や働き方の見直しなどで、日本での働き方もだんだんと変わってきています。
今高校生くらいの子供たちが社会にでる頃にはこういった環境であったり、働くということの考え方も変わってきているかもしれません。
大学選びや将来を考えるにあたっては、この辺をもう一度しっかり考えて行く必要があるのではないかと思います。